駒の湯BLOG
記念碑が出来上がるまで…

分校の校歌に「親たちの労苦思えば目がうるむ」とあります。
今回、記念碑に校歌も刻めたのは本当に良かったです。
設置には時間がかかっていますが、ジオパークのジオサイトへ期待も…
いつか、開拓団の人たちは山を下りてしまうかもしれない…
しかし、開拓団がいたからこそ、ブナの原生林が開拓され、
道路が整備され、電気導入が叶い、インフラが整っていきます。
冬の除雪も慣れた人たちだからこそできるのです。
その歴史を忘れないでほしい…

そして、その始まりのきっかけになった駒の湯の事も忘れないでほしい…
400年前に発見した小野寺氏のお墓には駒の湯発見の石碑がありますが、
内陸地震による被害で高低差もなくなり、元の玄関の位置もわからないでしょう。
ジオパークのジオサイトになりましたが、温泉を知る人はいません。
温泉は温泉を大事に思っている人たちに勇気づけられています。
最期までこの地を守りながら湯守であり続け、今は存在しています…
その思いが通じる日が来ることを願っています。
分校の歴史を知ってもらいたい…

内陸地震後、道路が不通となり、山から一時避難をした際、
分校に通っていた子どもたちは本校に通うことになった。
一時避難が解除されれば、分校に通い、その卒業生となるはずだったが、
統廃合の波に飲まれ、耕英分校は閉校になってしまう…

耕英分校は建設当時は雑木の原生林地帯でした。たまたま学校建設が許可になり、
その補助金は旧栗駒町へ交付されました。(略)
私も終戦と同時にソ連に抑留され、シベリアの奥地へ送られました。
そこは、戦前ソ連の流刑場であったと聞かされました。山また山の原生林地帯で、自然の城壁ともいわれ、
とても逃亡などできない陸の孤島でした。その地でまるまる4年、捕虜として務めて帰りましたが、
当地に来て、まず何より驚いたことは日本にもこのような奥地があるのかこのような原生林が
残ってあったかと言う事実でした。(略)建設費のうち国庫補助は40万円で、町村負担分は
すべて開拓者の奉仕作業で賄ったわけです。古川営林署より現地の立木を払下げられ、
伐採、運材、製材等、敷地の整備まですべて開拓者の奉仕作業でした。
(略)硝子、釘外の建築資材を購入すべく、村役場にお願いしたら、
学校が出来上がったら40万円で買い取るからと言われたこともあり、
その言葉は永久に忘れることはできません。(略)
やがて大工さんや開拓者の血のにじむような協力によって完成を見ることができました。
予算は校舎だけのものでしたが、黒板、机、椅子等の備品もそろえ、なお落成式の費用までも
補助の枠内で賄ったわけです。晴れて落成を迎えた時は(略)
開拓者のほほには一筋の涙が光っておりました。来る日も来る日も奉仕作業の連続で、
生活状態は極度に困窮し、食べる物も食べられず、それでも頑張って、その成果が今、
目の前に、この目に映る時、誰しも感激胸を打ち、涙を禁じえなかったことでしょう。(略)
明けて26年4月山本先生を迎え、めでたく開校の運びとなりました。何もかも不便な分校に来られて
どんなにか苦労されたことか今も想い出されます。(略) それから数か月後のある日の朝日新聞の記事欄に
日本一のぜいたくな学校、生徒の数は3人、国庫補助は40万円と掲載され、それが農政局の耳に入り、
さっそく、呼び出しを受けました。いちいちと事情聴取され、お目玉は十二分にちょうだいしたことも
忘れがたい想い出です。(略)お目玉はすごく大きかったのですが、理由を問われた時、
悪いとは重々承知しておりましたが、将来、耕英発展のためには、やむを得ませんでした、
と頭を深くたれ、いかようの処分も致し方ありませんと申し上げました。
係官も事情を配慮してか、今後このようなことは絶対許さないぞ、
ときつく申し付けられ無罪放免となったことも想い出から消えません。(「風雪と共に』宍戸忠一氏 )
開拓団の物語からはじまる…
分校が特別だと感じたのは、その歴史を知ったからです。
耕英開拓は当初、無理と思われ、なかなか払下げをしてもらえなかった。
丸森から満州開拓に出て、帰国せざるを得なかったとはいえ、
何とか帰国できた人たちはたくさんいて、様々な場所が開拓されるが、
栗駒山に来る理由は、ひとつ…

駒の湯が登山口にあり、山登りに欠かせない温泉宿として存在し、
湯治などにも使われ、マタギも住んでいた、山の温泉だった。
文字村の菅原兵三郎は村長に担がれるが、鉱泉地を買い駒の湯を経営する。
一人息子の兵市は県庁職員だったが、満州に渡り、戦後戻らなかった…
その死を弔うために丸森村長が来て兵三郎と相談。
駒の湯に引揚者を受け入れたのが始まりである。分校の物語はまた明日…

昭和15年、伊具郡耕野村(現伊具郡丸森町耕野)の村長の八島考二氏は狭い耕野村から満州への分村計画を考え、
当時、耕野村役場の主事をしていた谷津冬蔵氏を強力に勧誘し、幹部訓練に送ったが、県庁経済課主事の菅原兵市(駒の湯経営者・兵三郎長男)の協力で、
谷津冬蔵氏を呼び戻し、第一次団長として先遺隊20名とともに渡満させた。翌16年には菅原兵市も県庁を退き、自ら訓練を受け、
昭和17年、栗原郡文字村より14名を引き連れ第二次団長として渡満した。その後、耕野開拓団は100戸に達したが、
昭和20年、敗戦とともに第二の故郷を捨て帰国の途についたが、菅原兵市は帰国途中多くの団員家族とともに死去された。
帰国した団員の処理について八島氏は苦慮されたが、全員を耕野村に収容するには限度があった。団員の一部を八島氏の私有地を開放し入植させるとともに、
兵三郎と相談し、駒の湯温泉付近を開拓地とする計画を立てた。(略)
昭和22年、八島氏は、まず、耕野村及び地元出身者28名を駒の湯の1棟を無償で借り受け、送り込み、土地の解放、入植許可を畏友であった佐々木家寿治知事に迫った。
しかし、計画した土地は国有地として青森営林局古川営林署が所轄しており、土地の解放には予想外の困難を要した。(略)局では、現地での生活は不可能との見解を変えず、
製炭材として10ヘクタールの払い下げに応じたに過ぎなかった、しかし、八島氏はすでに入植者を現地に送り込んでおり、入植者に「土地の解放は絶対可能であるから
苦労もあろうが現地にとどまっていてほしい」と説いた。入植者達も一部を除きこれに応え、食糧難にもがまんし、厳しい一回目の冬を越えようとしていた。
しかし、解放運動は前進する気配もなく、離農者は日増しに増えた。 駒の湯温泉の孝(兵市の娘婿)は、自家用の炭窯や畑の貸付等協力を惜しまなかった。
八島氏は土地の解放運動をさらに強力に進めた。その結果、昭和23年正式に開拓地として許可された。ここに、既存部落よりはるかに隔絶したブナの原生林に、
新しい開拓地が誕生したのである。 (『風雪とともに』大槻好氏 抜粋)
記念碑の作業の始まりは…

分校跡に記念碑を建てたい、と解体の直後から話が出て、何とかならないか、と…
お金集めも大変だと言え、設置の準備には相当な打ち合わせ、事務作業…
信ちゃんと湯守と同級生3人で、作業し、少し手伝いました…
気が付いて来てくれた先輩がいて、うれしかったです。

きれいになりました。お疲れさまでした。
薪作業を一緒にしてくれてありがとうございました

薪割作業を一緒にしてもらいました。

お陰様でずいぶん片付きました。

とても楽しい作業になりました。
ありがとうございました。
自然学校で薪作業をしました

塚ちゃんが工事で出た薪材をもらったと言うのでもらいに行きました。
こんな風に誘ってもらえて本当にうれしいし、有難いです。
太いものは対処できないので、塚ちゃんに任せ、湯守も頑張っています。
本当に感謝。お世話になります。

今後もよろしくお願いします。
病院の違いに、困惑ばかり…

ジオのイベントに誘われ、久しぶりに人が集まる場所に行きました。
トークショーも楽しく、聞き取りもできて嬉しかったです。
今でも調子が悪いと初めての話題の聞き取りが難しいです。
また、久しぶりの人だとわからないことがあり、失礼に…
目に見えない状況はわかりにくく理解されないから、
買い物後の詰め替えが難しいことで買い物も湯守と一緒に行く…
山に帰ってもリハビリができるようにと手術をしてくれた病院が探してくれた隣町の基幹病院で、
脳外科医に「この手の患者はリハビリはしない方がいい」と言われてしまった。
内科は地元でと言われて、中央病院に行くとリハビリにつないでくれた。
手術をしてくれた病院は総合医なんて言わなかったが、チーム医療で、
主治医は丁寧に話を聴いてくれ、雪が多くて、リハビリに簡単に行けない…というので、
年末ということもあり、転院せず、リハビリも続けさせてくれた。
山に住めば病院は遠いのはわかっていたものの、病院を選べない…という辛さ…
トレイルなどができて、活気が出てくれたら…と思います…
早く穏やかな平和な日常が訪れますように…
ドクターヘリが来ました

大きな音が響いたので、くりこま荘前、
ヘリポートにドクターヘリが来ました。
すぐ、飛び立っていきました。

無事だといいのですが…
カブミーティングを見てきました

分校記念碑の実行委員会に参加した後、カブミーティングを見に行きました。
ねほりばーらんどの中條さんのキッチンカーを見つけ、
シイタケと栗原タコスとスープを手に入れました。
先日はタコライスをいただきましたが、タコスもおいしかったです。
スープにたくさんのキノコが入っていてうれしい、おいしい。

カブに乗って来た仙台の湯守の友人が差し入れてくれたドーナツは
中條さんのキッチンカーのお隣でした。おいしかったです。

ジオパークのイベントに行ってきました

ジオパークのイベントに行ってきました。

ジオトレイルの開通記念セレモニーと言うことでした。

キッチンカーや「てから」のブースもあり、おいしかったです。

トークイベントも面白かったし、市議さんたちが来ていたので話しました。
ただし、元の駒の湯キャンプ場の場所がいいと言う話を聞き、絶句しました…
皆さんはご自宅のお庭に知らない人がたくさん泊まったらどうですか???…
そもそもキャンプ場を廃止する時、反対し、廃止するなら土地を返してと言ったら、
駒の湯が返せと言ったから、キャンプ場を廃止したと議会で説明すると言われ
止めてくれと頼んだのに、今でも、駒の湯のせいだと言われる…
一番の被災者親子にそれはない…と、思います…
ブレイディみかこさんの本で「相手の靴を履く」と言う言葉を知りましたが、
ほんの少し、相手の身に置き換える伴走者であって欲しいのです。












