駒の湯
400年の歴史

 駒の湯は2018年で開湯400年という長い歴史の温泉です。2008年の岩手・宮城内陸地震では温泉旅館だけでなく利用していた源泉までも埋もれてしまいました。昔、湯の華採りに使っていた源泉だけは埋もれず残り、涸れかけていたものの、地震の半年後に再び湧き出しました。現在はその源泉を利用して日帰り入浴を再開しています。

 以前より駒の湯温泉を菅原家で引き継ぐ前の長い歴史について調査してきました。しかし内陸地震の土石流によって資料が埋もれ、再建などに時間を費やしている間に証言してくれる人が減ってきています。その中でも、いろいろ判ってきたことを書き示すことで次世代にこの歴史を引き継いでいきたいと考えています。

 一温泉宿としてだけでなく、戦後栗駒耕英地区の中核として存在してきた駒の湯。このページでは、そんな駒の湯の歴史をタイムラインで紐解いていきたいと思います。

~ 昔々のこと ~

 
 栗駒山には古くから修験道や信仰登山に人々が入山してきたと言われています。その栗駒山で、1617年に鶯沢の小野寺氏によって駒の湯の源泉が発見され、翌年開湯しました。
 しかし1808年の火災で、開湯してからの資料はほとんど残っていませんが、むかし一関市萩荘長倉に前宿があったこと、明治時代の後期に営業を再開したこと、後に「沼倉屋」「文字屋」という2つの宿があったことがわかっています。

終戦前後と思われる

~ 戦前・戦中のお話 ~

 
 戦前のこの辺りには駒の湯しかなく、ここに泊まらなくては山頂に行けない登山口の温泉宿でした。湯治や登山に訪れる人々は、「はらみ坂(孕坂、腹見坂)」と呼ばれる急坂を上り、駒の湯にたどり着きました。
 昭和11年、「文字屋」の主人であった菅原兵三郎は「沼倉屋」を買い取り、現在に続く「駒の湯温泉」の経営をはじめました。文字村長を務め、「事業家だった」と評される彼は、それ以来登山口の温泉宿を守ってきました。
 その一人息子である菅原兵市は、宮城県職員で耕野村(現丸森町)の第二次開拓団長として渡満・入植したものの、敗戦に伴う引き揚げの途中で帰らぬ人となりました。当時、兵三郎は学問優秀と評判だった高橋孝を駒の湯に置いていました。兵市亡きあと、孝は菅原家に婿入りし、駒の湯の跡取りとして働きはじめます。その頃、兵市の遺影に参ってくれた元耕野村長の八島考二氏が満州からの引揚者の話をしました。そこで兵三郎は、駒の湯付近の国有林を開拓地とすることを決め、関係機関に働きかけました。
 昭和22年からのおよそ3年間、30人ほどが駒の湯で共同生活をしました。駒の湯がある耕英地区の名前は、引揚者の多くが耕野村の出身だったことに由来します。

昭和30年代初めの様子

昭和30年代初めの客室の様子

~ 戦後のお話 ~

 
  戦後の駒の湯は孝の家族を中心に経営してきました。豊富な湯量に支えられた一帯は駒の湯温泉郷と呼ばれていました。今でも市道は「馬場駒の湯線」と呼ばれ、以前はバスの終着点も「駒の湯温泉」であるなど、駒の湯は一つの宿の呼び名を超えて地点の名称として親しまれてました。

駒の湯温泉には細倉鉱山の山荘、町営の山小屋、「栗鉄山の家」バンガローなどがあり、県内各地の学校登山の受け入れもしていました。時代の流れで一軒宿となってからも、家族・親戚や住み込みの従業員で40人程の温泉宿を切り盛りしてきました。

平成10年頃の様子

平成年~2008年6月14日
内陸地震直前の温泉旅館玄関前の様子

昭和50年代、学校登山のバス
最高で300人が様々な建物で泊まりました

~ 内陸地震のこと ~

 
 2008年6月14日8時43分。下から突き上げる激しい揺れによって駒の湯の対岸が崩落し、深さ30m程の渓谷(裏沢)をふさぎました。平成20年岩手・宮城内陸地震です。同時に上流でも斜面崩壊が起きました。崩れた部分には大量の残雪があり、大規模な土石流となって沢を下りました。約7分後、上流からの土石流は駒の湯対岸で崩れていた土砂に行く手を阻まれ、温泉宿をのみ込みました。土石流は2人の宿泊客、一緒に働いていた3人の従業員と家族2人の命を奪いました。不明だった2人の従業員は1年後に発見されました。奇跡的に湯守親子は助かりました。現地には今も4~11メートルの土砂がとどまっています。
 父親(孝)の方は荷物の搬入をしようと外にいたところを土石流にのみ込まれました。岩に押し上げられた時に奇跡的に顔が出て、泥の海を泳ぎ這い出てうずくまっていたのを見つけられ「ハイルザーム栗駒」へ運んでもらい、ひとまずワゴン車で暖をとりました。地区の人たちは主に「やまなみハウス」に避難していました。
息子は事務室で地震に遭いました。地震後停電になり懐中電灯を持って建物の中を片付けていると「向かいの崖が崩れた」とお客さんが階段を駆け上がってきました。外に飛び出すと盛り上がった土石流の先端が見え、「逃げろ」と叫びながら、建物内なら助かると信じて一階奥の洗濯室に逃げ込みました。しかし建物は押し流されながら回転し、その途中、目の前にいた母親が崩れた建物にのみ込まれました。どうすることもできないまま、気がつくと壁と洗濯機に挟まれてました。閉じ込められ真っ暗の中、持っていた懐中電灯と頭上の光を頼りに、壁材等を折って動ける隙間を作り、3~4mよじ登り外に出ました。外は一面泥の海です。瓦礫伝いに窓の外から2階に入ると従業員の部屋で、携帯電話が置いてありました。電波が弱かったが、何とか従業員の家族にメールだけはできました。その後やまなみハウスに運ばれ、更に自衛隊のヘリで病院に搬送。肋骨と足の甲が骨折していました。
  このような大地震はこの地域では過去1万年で三度ほど起きたと想定されるということです。土石流に巻き込まれることはまさに想定外のことでした。

2階から手を振った写真から
2階で助かったと
勘違いされました
泥の道は父親の張って歩いた跡でした


~ 復旧から今日までのこと ~

 
  土石流は7人の尊い命を奪い、源泉、温泉旅館、自宅が埋もれてしまいました。翌2009年、亡くなったチカ子(孝の妻)の誕生日(7月1日)に行方不明だった従業員2名が見つかりました。その後2010年の三回忌に合わせて慰霊碑を建立しました。 
被災前に利用していた源泉は全て土石流に埋まってしまいましたが、昔、湯の華取りに使っていた枯れかけていた源泉が地震後しばらくして再び湧き出しました。温度は低めですが、まさに「希望の湯」でした。
 4年後の2012年、河川工事で立入禁止の中、くりこま高原温泉郷協議会提供の湯桶で足湯(現在は休止)を始めました。
 5年後の2013年に自宅を再建、山に帰ることができました。しかし、再建工事中に家族が病気で入院し、先行きが見えない日々でした。さらに東日本大震災の影響や、毎年のような秋の大雨で河川工事も遅れました。その年の秋に工事が終えたときには、担当された職員さんたちの支援を受けて「くりこま絆の森植樹プロジェクト」が立ち上がり、少しずつ応援してくださる人が増えました。そのことで前向きな気持ちになり日帰り温泉を再建する決心をしました。資金面や手続き上の問題でなかなか進まなかったものの、元のお客さん、幼馴染の棟梁やなじみの設備屋さんに手伝ってもらい、7年後の2015年10月ようやく日帰り温泉を再開できました。その後再び家族が倒れ、元々室外の受付で身体への負担が大きかったので、休憩室付きの食事処に受付を作ることにし、2016年5月に始動。トイレの設置にも費用がかかるため仮設で運営していましたが、栗原市の助成や元のお客さんなどの寄付で水洗トイレも設置できました。その際、防災ボランティア「集結」には40mに渡る排水管埋設工事をしていただきました。検査と手続きに時間がかかり、保健所の許可を待って8月11日からそばカフェの営業が始まりました。
 そばカフェでは北海道産のそば粉で湯守自ら仕込んだ十割そばと温かいキノコそば(秋季)をお出ししています。そば作りは機械を導入した山形の会社で研修させていただきました。今も工夫をしながら日々精進の気持ちで、おいしいと言ってもらえるそばを作り続けています。十割そばですので、小麦粉アレルギーのお子さんも安心して食べられます。そば湯も楽しめます。是非ご賞味ください。

足湯を設置している様子


冬は雪下ろしや除雪をしています


当初湯口は震災前のを踏襲しました


2016年蕎麦カフェが
温泉の横にできました


自家製麺の北海道産十割そば

~ これからのこと ~

 
  今は 「くりこま絆の森植樹プロジェクト」を結成し、被災現場の植樹・緑化を行い、未来の子どもたちに森を残そうと活動しています。また、再建した400年のお湯を次世代につなごうと、駒の湯応援団も結成され、ボランティアで作業してくれる人も増えました。思うように進まないときもありますが、皆さんのおかげでがんばれています。
 最後に、被災現場や崖崩れの跡は遺族にとって大切な場所であり、つらい傷跡です。現場の写真を撮るだけでなく、お立ち寄りくだされば当時の事をお話しできます。また、『山が動いた』やブログでも当時の様子を知ることができます。ここで大切な人を亡くした遺族の心に寄り添っていただきたいと思っています。


【参考資料】

・栗原郡誌=築館町(宮城県)/栗原郡教育会、 1918  p288 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/953187 (参照2017-10-25)
・大槻好=「変遷史」、「変遷年譜」風雪とともに 栗駒小学校耕英分校父兄教師会 1985 pp4-36
・菅原孝=「耕英開拓誕生記」 風雪とともに 栗駒小学校耕英分校父兄教師会 1985 pp37-45
・地理調査部=平成20年(2008年)岩手・宮城内陸地震に対する地理調査部の取り組み 国土地理院時報 2008年 No117 p56
http://www.gsi.go.jp/common/000048776.pdf (参照2017-10-25)
・(社)地盤工学会 2008年岩手・宮城内陸地震災害調査委員会 平成20年(2008年)岩手・宮城内陸地震災害調査報告書 委員会報告書 2010年 pp93-113 https://www.jiban.or.jp/file/organi/bu/chousabu/2008iwatemiyagi/all.pdf (参照2017-10-25)

【引用画像】
被災時の写真については手元にあるものが限られているため以下より引用しました。

・(社)地盤工学会 (a) 平成20年(2008年)岩手・宮城内陸地震災害調査報告書
・時事通信社 (b) https://www.jiji.com/jc/d2?p=ime00101-6314144&d=004soc (参照2017-11-06)
・時事通信社(c) https://www.jiji.com/jc/d2?p=ime00101-6309552&d=004soc (参照2017-11-03)

その他にも多くの皆様から昔の様子の写真をご提供いただいております。ありがとうございました。

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(2019年4月1日最終更新)

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