駒の湯BLOG
昔の駒の湯を訪ねたよう…
ジオラマをじっくり見る…昔の駒の湯を訪ねているようだ…
ドリームズカンパニーの鈴木亮さんが撮影してくれた。雰囲気出てる…
本当に桃源郷だったんだ…玄関から入り、廊下伝いに温泉に入る…
開拓団の人たちが共同生活をした湯治棟は後にトタン屋根に…
そして、学校登山の子どもたちも泊まった…覚えている人いるかなあ…
奥の赤い屋根は戦争が始まる頃に建てられた細倉鉱山の山荘…
源泉も使っていたので、温泉も入れた。
細倉鉱山が繫栄したのは、戦争が関係しているのか…
戦争にも行った父が満州で兵三郎の息子、養父と会ったと言うが…
湯守がまとめなければ、消えていく記憶…
まとめたい…能力がついていかないが仕方ない…
大学生だった栗ちゃんがまとめてくれた資料もあるが…
昔、駒の湯キャンプ場がありました
岩手・宮城内陸地震の後、駒の湯キャンプ場を
駒の湯にやっては、と言った人がいたらしく、
被災直後に被災者であり、遺族である人ができるはずもなく、望むはずもなく…
結局、廃止になったので、廃止に伴って土地を返してという話が、
なぜか、駒の湯が返せと言っていると言う話になってしまい…
震災で傷ついた当事者がより傷ついたのを見て愕然としました。
冬はスキー場になっていたキャンプ場。
今でも覚えている人が多く、岩ケ崎小学校の卒業アルバムに写真が載っています。
学校登山もあり、子どもたちの郷土愛も山を通じて育まれたことでしょう。
山のある風景がある方が郷土愛につながるとか…昔、聞いたことがあるけれど…
山を通じた活動をもっと増やして、生まれたところ、育ったところ、
今いるところへの愛着がつながっていってほしいと願っています…
むかし、駒の湯に開拓団が住んでいた頃…
戦後、満州から戻れなかった長男の弔いに来てくれた
丸森の八島村長から満州からの引揚者の受け入れを要請され、
文字村長もした曾祖父、菅原兵三郎が駒の湯で受け入れた。
その後、開拓団の集落は広がり、耕英小中学校は一時期、分校ではない。
給食もあり、180名近くの子どもたちが卒業したそうだ。
集落になったゆえに電気や水道が導入され、今に至る…
今は観光地と思われている耕英の開拓団の歴史ももっと知ってほしいと、
駒の湯のむかしの様子をジオラマにしていただいた。
是非、戦前戦後の山の暮らしを知ってもらえたらと願っています。
昭和41年、電気導入記念に耕英地区の皆さん
2世、3世の時代になり、人数も減り、記憶が薄れていく前に…
何とかしたいです。
お越しいただき、ありがとうございます
日帰り温泉を始め、水洗トイレのため浄化槽の設置に
被災地ゆえの苦労があった…
その時、志津川の山建さんが、集結を連れ、手伝ってくださった。
今日は、久しぶりに様子を見に、お参りに、きてくださった。
いつもありがとうございます。
お参り、お花ありがとうございます
慰霊祭が終わり…少しほっとしました。
緊張がピークだったので、日常が戻るといいなあ…
お花を毎年送ってくださりありがとうございます。
久しぶりの晴れ、草刈りと草刈り後の作業をしています
久しぶりにきれいな青空が見えています。
気温も上がりそうです。
昨日の雨で湿度も上がっているようなので、熱中症に注意です。
草刈りや草刈りの後始末の作業に湯守が追われています。
17回忌やお墓詣り、慰霊祭…の準備もありますから、頑張っています。
早く穏やかな平和な日常が訪れますように…
慰霊碑にお参りいただき、ありがとうございました
今日も慰霊碑の周辺の作業をしました
午前中は湯守が会議があって、
午後から慰霊碑周辺の手入れをしました。
さっぱりしてよかったです。
草刈り、お疲れさまでした
市から人が派遣されて市道の草刈りをしてもらいました。
ボランティアでジオパークの人たちも来て作業してくれました。
ありがとうございます。
その間、水路の細かな草取りをしました。
いつもtakemaさんや誠さんがやってくれていたのですが、
時期が合わず、手入れができていません。
県の所有地になったと言え、結局、湯守が一人でやっている。
ときより、助けてくれる人がいて…の繰り返し…
水路の脇の木を枝切りしたいけれど、今回は慰霊碑の周辺が優先だから…
慰霊祭の時の駐車場の草刈りも済みました。
取材の人に嫌味を言われることもないでしょう…
とにかく、皆さまのお陰で、慰霊祭を気持ちよく迎えられます。
お疲れさまでした。感謝です。
今年は17回忌…
忙しくなります。
慰霊碑周辺の草刈りをします
晴れ、気温も上がってくるようです。
今日は慰霊碑周辺の草刈りをします。
よろしくお願いします。
気温が上がるので、熱中症に注意します。
早く穏やかな平和な日常が訪れますように…