駒の湯BLOG
伝承の難しさ…
被災地の話題では「忘れない」や「取り残さない」ということばを聞く…
ここでは、そのことばすら聞くことはほとんどない…
被災地を認識していても、いないもののように扱われる…
被災状況を聞いても、生きている人の物語を聞いてくれる人は少ない…
だから、少しでも残したいと願うのかもしれない…
これだけのことをしてきた人ですらそう思うのなら、
名もなき者は忘れられていくのみなのか…とても寂しく思う…
必死に伝えたい思いを受け留めてもらいたいが、難しい…
力不足とふがいなさ、いたらなさばかり…痛いほど感じる…
少しずつ、まとめていくしかない…と、思う…
わかりにくいと思うけれど、ご理解いただきたい…
ガーデンの様子
世界谷地の帰りに来てくださった仲良しグループの方たち…
トキソウを見られたものの、他はあまりなかった様子…
うちのガーデンの方がニッコウキスゲが多かったかな…
うちもアジサイが色づき、桔梗が咲き始めました。
坂にもアジサイが見られますが、自生か?と湯守…
植えてはないアジサイが見られるのは食堂の前も…
青いものが多く、色が出て来て、今からが楽しみです。
桔梗も昨日は一つだけの開花だったので、楽しみです。
草刈りお疲れさまでした
今日は湯守を入れて7人の参加でした。
水路も一部作業してもらいました。
暑い中、本当にお疲れさまでした。
今日は自然を守る会の草刈り作業日です
晴れていますが、曇りのち晴れの予報です。
山は霧が出ていませんが、濃霧注意報が出ています。
今日は自然を守る会が来てくれ、草刈りの予定ですが、
今日に限ってガーデンの手入れで虫に刺された…
病院に行くしかない…
朝に送ってもらって、草刈り終了後に迎えにきてもらうしかない…
今年は虫がいないなあ、と言っていたのに…
顔でなかった分、よかったと思わないと…
こうして、しばらくはガーデンの作業はできない…残念…
守る会の作業は湯守のみ参加…すみません。
よろしくお願いします。
早く穏やかな平和な日常が訪れますように…
ガーデンの手入れはしばらくお休みします
今日は湯守にも手伝ってもらってガーデンのところのカヤを処分した。
湯守の作業後、引き続き作業をしていたら、虫に刺されてしまった…
仕方ない、腫れが引かなければ、病院に…
今年は刺されず済んだ…と思ったのに…残念…
ところが、明日が自然を守る会が草刈りに来てくれる日…
仕方ない、朝に病院に送ってもらって、作業終了後に迎えを待つしかない…
しばらく外作業はできなくなってしまう…
湯守が草刈りをする間、手入れするつもりだった水路の作業もできない…困った…
ガーデンの様子
ガーデンの手入れをお客様の来るまでの間にしました。
少しずつ手入れしたから、少し増えたかな…
いつも文さんやゆかりさん、のぶちゃんが手入れしてくれていたので
楽させてもらっていたので感謝ばかりです。
今年は虫が少ないので作業ができています。
昔の駒の湯を訪ねたよう…
ジオラマをじっくり見る…昔の駒の湯を訪ねているようだ…
ドリームズカンパニーの鈴木亮さんが撮影してくれた。雰囲気出てる…
本当に桃源郷だったんだ…玄関から入り、廊下伝いに温泉に入る…
開拓団の人たちが共同生活をした湯治棟は後にトタン屋根に…
そして、学校登山の子どもたちも泊まった…覚えている人いるかなあ…
奥の赤い屋根は戦争が始まる頃に建てられた細倉鉱山の山荘…
源泉も使っていたので、温泉も入れた。
細倉鉱山が繫栄したのは、戦争が関係しているのか…
戦争にも行った父が満州で兵三郎の息子、養父と会ったと言うが…
湯守がまとめなければ、消えていく記憶…
まとめたい…能力がついていかないが仕方ない…
大学生だった栗ちゃんがまとめてくれた資料もあるが…
昔、駒の湯キャンプ場がありました
岩手・宮城内陸地震の後、駒の湯キャンプ場を
駒の湯にやっては、と言った人がいたらしく、
被災直後に被災者であり、遺族である人ができるはずもなく、望むはずもなく…
結局、廃止になったので、廃止に伴って土地を返してという話が、
なぜか、駒の湯が返せと言っていると言う話になってしまい…
震災で傷ついた当事者がより傷ついたのを見て愕然としました。
冬はスキー場になっていたキャンプ場。
今でも覚えている人が多く、岩ケ崎小学校の卒業アルバムに写真が載っています。
学校登山もあり、子どもたちの郷土愛も山を通じて育まれたことでしょう。
山のある風景がある方が郷土愛につながるとか…昔、聞いたことがあるけれど…
山を通じた活動をもっと増やして、生まれたところ、育ったところ、
今いるところへの愛着がつながっていってほしいと願っています…
むかし、駒の湯に開拓団が住んでいた頃…
戦後、満州から戻れなかった長男の弔いに来てくれた
丸森の八島村長から満州からの引揚者の受け入れを要請され、
文字村長もした曾祖父、菅原兵三郎が駒の湯で受け入れた。
その後、開拓団の集落は広がり、耕英小中学校は一時期、分校ではない。
給食もあり、180名近くの子どもたちが卒業したそうだ。
集落になったゆえに電気や水道が導入され、今に至る…
今は観光地と思われている耕英の開拓団の歴史ももっと知ってほしいと、
駒の湯のむかしの様子をジオラマにしていただいた。
是非、戦前戦後の山の暮らしを知ってもらえたらと願っています。
昭和41年、電気導入記念に耕英地区の皆さん
2世、3世の時代になり、人数も減り、記憶が薄れていく前に…
何とかしたいです。
お越しいただき、ありがとうございます
日帰り温泉を始め、水洗トイレのため浄化槽の設置に
被災地ゆえの苦労があった…
その時、志津川の山建さんが、集結を連れ、手伝ってくださった。
今日は、久しぶりに様子を見に、お参りに、きてくださった。
いつもありがとうございます。