
内陸地震後、道路が不通となり、山から一時避難をした際、
分校に通っていた子どもたちは本校に通うことになった。
一時避難が解除されれば、分校に通い、その卒業生となるはずだったが、
統廃合の波に飲まれ、耕英分校は閉校になってしまう…

耕英分校は建設当時は雑木の原生林地帯でした。たまたま学校建設が許可になり、
その補助金は旧栗駒町へ交付されました。(略)
私も終戦と同時にソ連に抑留され、シベリアの奥地へ送られました。
そこは、戦前ソ連の流刑場であったと聞かされました。山また山の原生林地帯で、自然の城壁ともいわれ、
とても逃亡などできない陸の孤島でした。その地でまるまる4年、捕虜として務めて帰りましたが、
当地に来て、まず何より驚いたことは日本にもこのような奥地があるのかこのような原生林が
残ってあったかと言う事実でした。(略)建設費のうち国庫補助は40万円で、町村負担分は
すべて開拓者の奉仕作業で賄ったわけです。古川営林署より現地の立木を払下げられ、
伐採、運材、製材等、敷地の整備まですべて開拓者の奉仕作業でした。
(略)硝子、釘外の建築資材を購入すべく、村役場にお願いしたら、
学校が出来上がったら40万円で買い取るからと言われたこともあり、
その言葉は永久に忘れることはできません。(略)
やがて大工さんや開拓者の血のにじむような協力によって完成を見ることができました。
予算は校舎だけのものでしたが、黒板、机、椅子等の備品もそろえ、なお落成式の費用までも
補助の枠内で賄ったわけです。晴れて落成を迎えた時は(略)
開拓者のほほには一筋の涙が光っておりました。来る日も来る日も奉仕作業の連続で、
生活状態は極度に困窮し、食べる物も食べられず、それでも頑張って、その成果が今、
目の前に、この目に映る時、誰しも感激胸を打ち、涙を禁じえなかったことでしょう。(略)
明けて26年4月山本先生を迎え、めでたく開校の運びとなりました。何もかも不便な分校に来られて
どんなにか苦労されたことか今も想い出されます。(略) それから数か月後のある日の朝日新聞の記事欄に
日本一のぜいたくな学校、生徒の数は3人、国庫補助は40万円と掲載され、それが農政局の耳に入り、
さっそく、呼び出しを受けました。いちいちと事情聴取され、お目玉は十二分にちょうだいしたことも
忘れがたい想い出です。(略)お目玉はすごく大きかったのですが、理由を問われた時、
悪いとは重々承知しておりましたが、将来、耕英発展のためには、やむを得ませんでした、
と頭を深くたれ、いかようの処分も致し方ありませんと申し上げました。
係官も事情を配慮してか、今後このようなことは絶対許さないぞ、
ときつく申し付けられ無罪放免となったことも想い出から消えません。(「風雪と共に』宍戸忠一氏 )