分校が特別だと感じたのは、その歴史を知ったからです。
耕英開拓は当初、無理と思われ、なかなか払下げをしてもらえなかった。
丸森から満州開拓に出て、帰国せざるを得なかったとはいえ、
何とか帰国できた人たちはたくさんいて、様々な場所が開拓されるが、
栗駒山に来る理由は、ひとつ…

駒の湯が登山口にあり、山登りに欠かせない温泉宿として存在し、
湯治などにも使われ、マタギも住んでいた、山の温泉だった。
文字村の菅原兵三郎は村長に担がれるが、鉱泉地を買い駒の湯を経営する。
一人息子の兵市は県庁職員だったが、満州に渡り、戦後戻らなかった…
その死を弔うために丸森村長が来て兵三郎と相談。
駒の湯に引揚者を受け入れたのが始まりである。分校の物語はまた明日…

昭和15年、伊具郡耕野村(現伊具郡丸森町耕野)の村長の八島考二氏は狭い耕野村から満州への分村計画を考え、
当時、耕野村役場の主事をしていた谷津冬蔵氏を強力に勧誘し、幹部訓練に送ったが、県庁経済課主事の菅原兵市(駒の湯経営者・兵三郎長男)の協力で、
谷津冬蔵氏を呼び戻し、第一次団長として先遺隊20名とともに渡満させた。翌16年には菅原兵市も県庁を退き、自ら訓練を受け、
昭和17年、栗原郡文字村より14名を引き連れ第二次団長として渡満した。その後、耕野開拓団は100戸に達したが、
昭和20年、敗戦とともに第二の故郷を捨て帰国の途についたが、菅原兵市は帰国途中多くの団員家族とともに死去された。
帰国した団員の処理について八島氏は苦慮されたが、全員を耕野村に収容するには限度があった。団員の一部を八島氏の私有地を開放し入植させるとともに、
兵三郎と相談し、駒の湯温泉付近を開拓地とする計画を立てた。(略)
昭和22年、八島氏は、まず、耕野村及び地元出身者28名を駒の湯の1棟を無償で借り受け、送り込み、土地の解放、入植許可を畏友であった佐々木家寿治知事に迫った。
しかし、計画した土地は国有地として青森営林局古川営林署が所轄しており、土地の解放には予想外の困難を要した。(略)局では、現地での生活は不可能との見解を変えず、
製炭材として10ヘクタールの払い下げに応じたに過ぎなかった、しかし、八島氏はすでに入植者を現地に送り込んでおり、入植者に「土地の解放は絶対可能であるから
苦労もあろうが現地にとどまっていてほしい」と説いた。入植者達も一部を除きこれに応え、食糧難にもがまんし、厳しい一回目の冬を越えようとしていた。
しかし、解放運動は前進する気配もなく、離農者は日増しに増えた。 駒の湯温泉の孝(兵市の娘婿)は、自家用の炭窯や畑の貸付等協力を惜しまなかった。
八島氏は土地の解放運動をさらに強力に進めた。その結果、昭和23年正式に開拓地として許可された。ここに、既存部落よりはるかに隔絶したブナの原生林に、
新しい開拓地が誕生したのである。 (『風雪とともに』大槻好氏 抜粋)